産 地

狭山茶は、埼玉県狭山市に広がる広大な茶畑から南西方面に広がる狭山丘陵にかけて生産されており、入間市では、全体の約6割を生産しています。所沢市も狭山市・入間市と並んで主産地となっており、都市開発が進んでいる現在でも、伝統的な茶園が点在しています。その他にも、飯能市、川越市、日高市、鶴ヶ島市、ふじみ野市、三芳町など、多くの地域で生産されています。

また、入間市と隣接する東京都瑞穂町や青梅市、所沢市と接する武蔵村山市や東村山市などでも、狭山茶が生産されています。これらの地域で生産されるお茶は「東京狭山茶」と呼ばれることもあります。

歴 史

起源

今から800年ほど前、中国から茶の木の種を持ち帰ったお坊さんが、日本の地に茶の文化を根付かせました。その種が蒔かれた場所は、現在の埼玉県川越市とされています。これが、日本におけるお茶の栽培の始まりであり、後に「狭山茶」と呼ばれる銘茶誕生の礎となったのです。

誕生

その後、茶の木は埼玉県各地に広がり、江戸時代中頃から本格的な栽培が始まりました。特に、入間市、所沢市、川越市を中心とした地域は、良質な茶葉を生み出す土壌と気候に恵まれ、茶の生産が盛んになりました。

繁栄

江戸時代後期には、茶道の人気とともに、狭山茶の需要も高まりました。特に、江戸幕府への献上茶として指定されたことで、その名声は全国に広まりました。

現代

狭山茶は日本三大銘茶の一つとして、国内外で愛されています。伝統的な製法を守りながら、常に新しい技術を取り入れることで、高品質な茶葉を生産し続けています。

狭山茶の由来

「狭山茶」の「狭山」は、入間市の南部に位置する「狭山丘陵」に由来します。狭山丘陵は、埼玉県と東京都にまたがった丘陵です。

江戸時代の終わりごろ、狭山丘陵北麓の二本木村西久保(現・入間市宮寺)の吉川温恭(よしかわよしずみ)と、坊村(現・東京都瑞穂町)の村野盛政(むらのもりまさ)が、煎茶作りを開始し、ここで作られる煎茶が初めて「狭山茶」と名付けられました。

明治時代初め、黒須村(現・入間市)に茶の直輸出会社「狭山会社」が設立されると、周辺地域一帯で作られる茶の総称を、最初に煎茶作りが始まった場所での呼び名である「狭山茶」に統一し、広域ブランド名としました。

現在、埼玉県および隣接する東京都でつくられるお茶を総称して「狭山茶」と呼びます。

また、入間市のとなり(北東)には「狭山市」があります。狭山市は、狭山丘陵から離れていますが、昭和29年に市制を施行する際に、「狭山茶」の茶名から「狭山市」と名付けられました。

狭山丘陵の成り立ち

狭山丘陵は富士山の火山灰の堆積層である関東ローム層に覆われた武蔵野台地の西部に「島」のように浮かぶ丘陵です。武蔵野台地とは、海抜約190mの青梅を扇頂とし、北は入間川、東は荒川、西は多摩川、南は現在の山ノ手につながる東西40km、南北20kmの東にゆるやかに傾斜した台地のことをいいます。「武蔵野の逃げ水」といわれるように関東ローム層は透水性が高く、水は伏流水となり、台地上に河川は発達せず、わずかに崖線や谷地から湧水となって湧き出すのです。

狭山丘陵では、丘陵から流れ出す中小の河川が入り込んで数多くの小さな谷を作っています。狭山丘陵は東西約11キロメートル、南北約4キロメートル、面積は約3,500ヘクタール(35k㎡、東京ドーム約750個分、メットライフドーム約1,000個分)の広さをもつ丘陵地です。

「さやま」の由来は、小さい山が連なるところとみられ、標高の最も高いところで194メートルあり、狭山丘陵を空から見ると、ラグビーボールの形をしたまるで市街地の中にうかぶ「緑の島」のように見えます。そこには、都心から30㎞圏内にも関わらず広大な雑木林や谷戸、湿地といった環境が広がって、とても豊かな自然の姿が残されています。

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